ミシンが壊れちゃってね。この間新しいのを買ったの。この歳でどうしよう? と思ったんだけど、「辞めちゃいけない」と思ってね。
君塚節子さん
宝物:ミシン
たすきですか?
たすき、毎年作ってますよ。13本くらいかしら。『ひまわり』のみなさんと協力して作っています。わたしはミシンでするけど、手縫いの人もいます。洋裁が好きで、小学校の頃からずっと手を動かしていました。
今も自分の着るものはすべて自分で作っています。腰がまがってきちゃったから、既成品は合わないしね。
岐阜市の出身です。結婚を機に、東京に出てきました。なれそめ?
内緒です。今が87歳で、東京タワーが半分くらいできた頃だったから、1958年(昭和33年)頃かしら。最初は蒲田にいてね、ちょっと身体悪くして入院してたんです。退院し、町田の団地に申し込んだら一回で当たってね。そこからずっと町田に住んでます。いまは団地も多いけど、当時はなんにもなくってね。「田舎に来ちゃった!」と驚いたけど、住めば都。今はいいところだなと思っています。
わたしが退院してしばらくしたら今度は主人がね、脳出血で身体が動かなくなって。11年間寝たきりの生活でした。主人は大きくてね、174センチの80キロを介護してたんだから、そりゃあ大変よ。だけど面白い人でね、おしゃべりが楽しくって。ストレスもなんにもありませんでしたよ。1991年(平成3年)に69歳で亡くなりました。
主人が亡くなってから、なんかさみしくなってね。ひとの役に立てないかな?
って思って、町田の市の職員さん相談したんです。「わたしにお役に立てることありませんか?」って。そのときたぶんわたしも介護される対象として、市の方がいらしてたと思うんだけどね。支援する側にしてもらったわけです。そこから『ひまわり』さんとのご縁ができて、ここで週2回、お人形作りを教えています。
人形作りは、主人が倒れる前の40代の終わり頃からひとに教えていて。団地の一室やカルチャーセンターで、たくさんの生徒さんに出会いました。若い人もたくさんいてね。月謝をみんなで積み立てて、年に一度旅行に行って。ハワイや沖縄にも行きました。50代が一番楽しかったんじゃないかしら。
息子が小学4年生になって、手もかからなくなったので、町田の洋裁学校にも行きました。それまで自己流でやっていたので、ちゃんと学ぼうと思って。50人くらい生徒さんがいるので、先生が見きれないのよね。「これで裁断していいかどうか、代わりに見て」って。わざわざ学校に行かなくてもよかったみたい。講師として残ったこの学校のご縁で、家で裁断の仕事を受注するようにもなりました。
そうそう。ミシンが壊れちゃってね。この間新しいのを買ったの。この歳でどうしよう? と思ったんだけど、「辞めちゃいけない」と思ってね。今のミシンはボタンがいっぱいでわかりにくいのよ。でもやっと慣れました。新しいミシンでコート一枚縫ったのよ。その余り布を使って、七分袖の上から被るものでも作ろうかと思って。