今だったら電話一つで済むからこそ、手紙って特別な伝え方ですよね。
柿崎 俊男さん
宝物:母からの手紙
幕別町が開町100年のときに、記念して造られたのが明野ヶ丘公園『ピラ・リ』です。アイヌ語で「偉大なる崖」という意味だそうです。ここから町を見渡すのが好きですね。この幕別町には110もの自治会があって、そのなかの緑町第4公区には、295戸・約650人が住んでいます。私はその公区長をしています。もともとベニアを造る合板会社に定年まで勤めて、今は隣町の農協の管理人をしています。技術系なもんですから「あれを直してくれ」って頼まれると断れなくてねえ。つい、やっちゃうんです。
『和(わっか)』さんとは、公区長になってからの付き合いです。RUN伴のことは、去年教えてもらって「おお、そんなのがあるのか!」と二つ返事で参加しました。僕自身も学生時代はずっと陸上をやっていたこともありますし。町内のみなさんにもスポーツをしてもらいたいと、陸上協会の副会長やスケート協会の会長も兼任しています。
今年のRUN伴は、実は自分たちが主催の「幕別町陸上競技記録会」という500人ほどが参加する陸上大会の日にちと重なっていてね。とにかく天気が心配でした。80個の弁当はキャンセルできない状態だったし、天気予報はいい返事をくれない。前日は眠れませんでした。でも朝起きたら雨がやんでいてね、「やったー!」って。グラウンドのライン引きもわずかな補修で開会ができたので、ほっとしています。
ああ、RUN伴にも参加しましたよ。朝からこのオレンジのTシャツを着てましたから。大会のみんなにも「俺行くからね、30分か1時間にぬけるからね」って声かけてたんです。みんな理解してますから、大丈夫です。みんな気持ちが大きいですから。
『和』の職員さんも地域のお祭りに率先して手伝いに来てくれる。だから、町内の皆さんにももっと『和』の施設の中に入って、彼女たちの活動を見てほしいですね。月に一度「和便り」というのが出てまして。活動の記録なんかが書いてあるんですけどね、それを町内の回覧板の一番上になるようにして配ってます。今回のRUN伴のお知らせもばっちり、一番上にしましたよ。できるだけ多くの人に理解いただいて、参加していただきたいと思っています。「なんかあったら、『和』に相談に行きなさい」と普段から言っています。
宝物ですか? 迷ったんですが、母からの手紙を持ってきました。元々、母は標茶(しべちゃ)町で割烹料理屋をやっていたんです。僕が小学2年のときに、父が亡くなりまして、そこから女手一つで4人の息子を育てたんです。小さなことにくよくよする人じゃなかった。自分のことは自分でしなさいという教育方針でした。厳しかったですよ。高校まで出してもらって、会社勤めをして親元を離れたときから手紙は始まっています。
一番古いものは昭和46年(1971年)ですね。僕が独身寮に入っているときのだ。「お金どうもありがとうございます」って書いてある。仕送りをしていたんでね、その御礼の言葉ですね。あとは、いくつになっても「飲みすぎるなよ、身体は大事にしろよ」です。僕は次男坊で、3人の兄弟たちにもそれぞれ出していたんでしょうけど、こうやって残してないと思うんですよね。こうやって読み返すと、いつまで経っても子は子なんだなと思います。
明治43年(1910年)生まれで女学校を出た人なので、足を悪くして施設に入ってもずっと本を読んでました。97歳まで自筆で年賀状が来てましたね。やっぱり書くってすごいことだなと。僕にはできないです。さすが明治の女性は強かった。104歳まで生きました。今だったら電話一つで済むことかもしれないけれど、手紙って特別な伝え方ですよね。ペンを使って書くという。嫁の悪口も書いてあるかもしれませんが、「よくここまで放らず取っておいたよね」と家内とも話してるんです。